2018.02.06

【インタビューVol.13】シルバーカー事業の成長は社会貢献そのもの。大切なことは「人生をかけて挑めるか」(株式会社幸和製作所 玉田秀明氏・植田樹氏)

 

歩くのが困難になった高齢者の歩行を助ける歩行車、シルバーカーでトップシェアを誇る幸和製作所。

 

2代目である代表取締役社長・玉田秀明氏は、先代から継ぐことを当たり前のように教えられ、高校卒業後に入社した。先代のようなカリスマ性がない自分に何ができるのか。戸惑いながら、壁に突き当たりながらも常に前を向かせる原動力は「事業の成長がそのまま社会貢献につながる」という確かな思いだ。

 

昨年11月には株式上場を果たし、海外市場にも攻勢をかけようとしている。

 

(写真右:代表取締役社長・玉田 秀明 氏、左:経営企画課 課長・植田 樹 氏)

 

Q 創業者である先代の跡を継ぐことに対してどのように思っていましたか。

玉田 自宅の1階が工場でした。初めの頃は従業員がおらへんかったので、注文がいっぱい入ってくると「手伝え」と言われましてね。5歳の頃からシルバーカーづくりをやってました。とくに9月の敬老の日の前は1年で一番忙しくなる時期だったので、小学校に入ってからまともに夏休みを休んだ記憶がありません。結局それが高校卒業するまで続きました。

 

父は僕が生まれた時から「おまえはおれの跡継ぎや」と吹き込んでいましたし、「男は仕事ができればええんやから勉強なんて必要ない」「仕事は男の命や」ということをずっと言い続けていたので、俺もそれが当たり前だと思い込んで育ちました。だから、他の道に進むことなどまったく考えることなく、高校を卒業してすぐに入社しました。

 

 

Q そもそもシルバーカーをつくりだしたきっかけを教えてください。

 

玉田 父はもともと乳母車をつくっていました。街でおばあちゃんたちが使われなくなった乳母車を杖代わりに押しているのを見て、それなら専用の車があれば便利ではないかと思い、シルバーカーを初めて世に送り出しました。ただ、売れ始めるとベビーカーの大手が参入してくるようになったようで。大手はすでに確立した問屋ルートを持っていて、そこへ流していったのでどんどんとシェアを奪われてしまいました。

 

 

Q 玉田社長が入社した頃はどんな状況だったのでしょうか?

 

玉田 シルバーカーの市場シェアは3位くらいでした。といっても、まだシルバーカーという言葉さえ認知されていない時代です。東日本の市場を開拓していこうということになり、入社半年で東京の営業を任されました。問屋を訪ねてもすでに大手と取引があるのでなかなか相手にしてもらえません。仕方がないので量販店やホームセンターに直接売りに行き、少しずつ売り上げを伸ばしていきました。

 

ある時、取引先で親しくしていたバイヤーに「君はまだ若いんだから海外からの仕入れを勉強した方がいい。中国に買い付けに行くからついて来い」と言われました。現地で見積もりを取ってみると日本の3分の1のコストで作れることがわかって、すぐに工場立ち上げの準備にかかりました。2003年3月に中国工場を開設し、現地に2年赴任してから日本に戻って社長になりました。27歳の時のことです。

 

 

Q 27歳とはずいぶん早いですね。

玉田 中国から日本の仕事のやり方を見ていたら無駄ばかりが見えて、俺が社長やったほうがええんちゃうかと思って、父に伝えたら「その言葉を待ってた。お前を27歳で社長にすると決めてたんや」と。ほんまかどうかわまりませんけど。

 

社長になった時の社員数は30人で14億円の売り上げがありました。2000年に介護保険制度ができて、その後シルバーカーが介護用品に認められたことが追い風になりました。
また、問屋不要論が言われるようになって小売店が直接メーカーと直接取引する流れになったこともうちには大きかったですね。シルバーカー以外に商品の幅を広げていったことで、量販店、ホームセンターから店の介護用品売場の棚割を任されるようになって、一気にシェアを広げていくことができました。

 

 

Q 商品の幅を広げていったというのは?

玉田 歩行車を扱い始めたことです。シルバーカーのメーカがすでに先行して市場を作っていたので、そこへ後発で参入しました。うちは問屋を介さない商売が多かったのでユーザーの声を得やすく、そこで得たヒントをシルバーカーの商品開発に生かしていました。その蓄積を今度は歩行車に転用していったわけです。

 

小型化、軽量化したもの、デザインにこだわったものや、ひじが乗せられたり酸素ボンベを一緒に運べるなどの工夫がユーザーに受け入れられました。うちの商品は競合品の2倍以上の価格だったのですがすぐに市場を席巻することができました。

 

Q しんどい時期もあったのでしょうか?

玉田 アベノミクスが始まって以降、円安が急激に進んだ時です。うちは海外工場で製品をつくって仕入れているので、原価が倍近くに跳ね上がってしまい、そこから2期連続で赤字決算になりました。あの頃は生きてるのがしんどかった。とにかく早く帰って、早く寝る。そうすれば現実から逃れられるというような感じでした。

 

植田 僕は2010年の入社で、まさにその頃は営業の一線にいた時でしたが、そんなしんどんいそぶりは僕らには見せていませんでしたね。むしろその時期、社長に任せていただけることが増えて、僕の得意先で大きな話が決まりそうな時に、どこからか情報を聞きつけたようで「問題点はどこだ」と聞かれて「値段です」と答えると「一任するから決めてこいよ」と。よし、決めてやるぞ、がんばるぞ、と思いました。

玉田 実は10年近く前から、会社を上場するぞ、と社員に言い続けてたんです。ところがなかなか実現せず、オオカミ少年のようなことになっていました。そこへ円安が直撃したものだから、銀行からも「上場を言う前にまず会社の再建が先ではないですか?」と言われて。この時は社員には言わんでいいことやずいぶんきついことも言っていたと思います。

 

カイゼン運動を積み重ねてやっと黒字に浮上してからは心の余裕が出てきて、本当に社員に任せられるようになりましたね。任せたらちゃんと答えを出してくれるんです。

 

 

Q なぜ上場を考えたのでしょう。

玉田 人は歩けなくなると急に弱ってしまうんですよ。だから、うちの会社がやっていることってほんまに事業がそのまんま社会貢献につながると思っていて。シルバーカーや歩行車があることで、歩けるようになる人を一人でも多く増やしたい。そのためには投資も必要だし、企業としての透明性も確保していかないといけない。そんな思いで上場を目標に掲げました。

 

植田 ある展示会でたまたまうちの新商品を見に来られたお客様が、それを使って歩けるようになり、本人とご家族が大喜びされていたんです。その時に接客していた玉田が「この仕事やっててよかった」とひとこと言ったのが印象的でした。

 

玉田 事業を継ぐって、ほんましんどいことやと思うんです。社長になる時に個人保証も先代から引き継がなあかんと知った時はがく然としました。だからぼくは無理に承継することはないと思ってるんです。

 

たまたま俺は父から継いだ事業が社会のためになる事業だからやりたいと思えたからよかったんですけど、命を張ってでもやりたいと思える覚悟がないんだったらやりたい人に任せるか、さっさと売って自分のやりたいことにお金を投じたほうがいいんじゃないかな。

 

 

Q そして昨年、ついに上場を果たされたんですね。

 

玉田 上場することでステークホルダーが増えるから、いろんな体制を整えないといけないんです。その過程で組織の人をガラッと入れ替えることもあって社内にはあつれきも生まれるんだけど、目指している方向性が共有できると一気に進む。社員も一気に成長していくのを感じました。

植田 そうですね。ぼくも子どもが生まれた直後に中国に行け、と言われて(笑)。それまでの営業から畑違いの生産管理に移ってはじめは何をすればいいのか分かりませんでしたが、社長が上場に向けてベストの形を模索しているのは伝わってきましたし、挑戦させてもらえることをありがたく感じました。

 

上場という目標があったからこそ何とか成果を出したいと思ったし、家族のためにも道筋をつけて早く日本に帰りたいと思いました。

 

 

Q 今後の方向性はどうお考えですか?

植田 中期経営計画では3つの柱を立てています。一つ目は海外販売の強化。アジア各国はいずれ日本と同様に介護保険制度が整備されていくでしょう。韓国ではすでに制度ができ今まさに日本と同じ道を今歩んでいます。そのための布石を打っていきたい。

 

二つ目は男性市場の獲得です。男性は女性に比べ体裁を気にしてシルバーカーを使いたがらない。そのハードルを下げるため、使っていてステータスを感じられるような商品を送り出していきたいと考えています。三つ目がロボット技術の活用です。利用者が何で困っているかを拾い出し、ロボット技術で解決していこうと考えています。

玉田 ロボットっていうだけで注目を集めるんだけど、大事なのは何がやりたいか。歩行車やシルバーカーって便利で楽なんだけど、坂道とか段差があると一転して前へ押し進めることが大変になる。ずっとそれをどうにかできないかと思っていて、そうした課題を解決できる新たな技術があるなら使わない手はない。使う人にとってより良い製品にするための技術の利用は惜しまずやっていきたいと思っています。

 

当社の売り上げが増えることはそれだけ歩ける人が増えるということ。そのことを常に思いながら経営に当たっていきたいと思っています。

 


【会社情報】
株式会社幸和製作所
大阪府堺市堺区海山町3丁159番地1
http://www.tacaof.co.jp/


 

<取材後記>

「本当に自分がやりたいと思えることだったら真剣に向き合えばいい」と玉田社長は言いました。

アトツギの立場だと、どうしても今ある事業を引き継ぐことを前提として考え、時にはそれが自分のやりたいことではないことも。

 

やりたいかどうかと言われると、実はあまり興味がなかったり、そもそも興味が持てるかどうか判断できるほどの情報を持っていないことも多い。

 

まずは、引き継いでやって行こう!と決心するためには、少しずつでいいので家業のことを知ったり関わっていく糸口を掴むことが大切なのかもしれないなと感じました。

 

 

 

(取材・写真:中山カナエ/文:山口 裕史)

ナカヤマ(中山 佳奈江)

ナカヤマ(中山 佳奈江)

1986年生れ。家業はド田舎&山奥で食器と仏壇の小売業。ギリギリU34なメンバー最年長であり唯一の昭和生まれ。前職の出張が多い生活が高じて鉄道路線図や地図とにらめっこするのが趣味。誰かへおすすめできる場所や物を中心とした旅行やお出かけに関する記事の執筆・写真提供の活動をしている。好きな食べ物はアジフライとみそ汁。昭和っぽい雰囲気が漂う喫茶店、赤ちょうちんの居酒屋の佇まいになぜホッとしてしまいがち。

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