2019.01.31

【インタビューVol.25】200年続く酒蔵を継いだアトツギ姉妹がめざす、地域の誇りをつくる酒造り(吉田酒造有限会社/吉田祥子さん・真子さん)

創業から200年以上続く福井県の郷酒(さとざけ)「白龍(はくりゅう)」。地元永平寺の米と水と人にこだわり酒造りを行ってきた6代目蔵元の父 故・吉田智彦氏の思いを脈々と受け継ぎ、母とともに姉の吉田祥子さんは営業として、妹の真子さんは杜氏として家業を担う。生産量を追わず、風土からなる美味しさを追求する手作りによる丁寧な酒造りを行う一方で、クラウドファンディングや情報発信など新たに挑戦している。

 

 

——  おふたりが家業を継ごうと思われたきっかけをついて教えてください。

真子  わたしが就職活動の頃、父の体調がよくなくて母から「戻ってくれないか」という話があって。姉は東京で働いていて実家には父と母と祖母だけでした。今、力になる人が必要だと思った時、わたししかいないなと思ったし、わたしで役に立つならとも思ったんです。

地元のことは嫌いじゃなかったし、同級生の友だちも県外の大学に行っていても就職は地元に戻る人も多くて、「友だちもいるし、戻ってもいいかな〜」と思って。

 

 

祥子 わたしは家業を継ぐつもりは全然ありませんでした。家と会社の境もない生活をあまりよく思ってはいなかったですし、プライベートと仕事は切り離したいとずっと思って育ったんです。東京で就職したタイミングで社長に就任していた母から「ゆくゆくは帰ってきて欲しい」と言われていたけれど、返事は濁し続けていて。そのままフェードアウトするつもりでした(笑)

 

その後、父の体調が悪くなったタイミングで何度も社長(母)から「帰ってきて」と言われていたんですが、働いている社長の姿はといつも辛そうで……。何のために仕事をしているんだろう?父から受け継いだからとりあえずやっているんじゃないかと思ってしまって。自分の人生は一度きりなのに、なぜそんな辛い思いをしなきゃいけない仕事をわざわざ継ぐ必要があるんだろう?と。

 

ですが、父が亡くなった半年後、母と妹から「永平寺のお米と水と人で作る、目が届く、手が届く、心が届く酒造りをしたい」という、父の想いだった言葉を軸にした今後の会社のビジョンと、改めて「帰ってきてほしい」という言葉に、あんなに辛そうにしていた社長もちゃんと自分の意志をもって会社を存続させたいんだなとわかって、会社としても仕事としてもおもしろそうだと感じられたので、戻ることを決意したんです。

 

 

——  真子さんは技術職である杜氏をされていますが、最初からめざしていたんですか?

 

真子 最初は営業をするのかな?と思っていたんですけど、営業をするにも酒造りを知らないとダメだということで、1年目から製造に入りました。

 

今、わたしが蔵元杜氏として仕事をしていますが、それまでは新潟や岩手の杜氏が率いる酒造り集団に依頼し、冬場の酒造りの時期にだけ来てもらって造っていたんです。
わたしが戻ってきた1年目は、出稼ぎの80代の杜氏の方が腰を痛めてしまって。かわりにわたしが夜は2時間おきに麹室を見に行く生活を毎日続けていました。深夜2時まで麹の様子を見て、そのあと4時半にまた起きて働き始める。酒造りをしている期間は1日も休みはないし、蔵から一歩もでることもなくて。

 

 

——  かなりキツそうですが、辞めようとは思わなかったですか?

 

 

真子 姉が戻るまでの2年間は会社自体もしんどい時期で。本当に辛くて2年目になるころにはもう辞めようと思っていたんです。姉もまだいなかったですし、ストレスは大きかったですね……。心も折れまくりで社長にはあたっていたかもしれません。

 

でも、辞めようと思っていた矢先、社長から北海道での酒造りの研修を入れられていたため、それだけはやり遂げてから辞めようと思っていました。

研修先は北海道の「上川大雪酒造」で、新しい蔵の立ち上げと6本の試験醸造酒造りだったんですが、杜氏のもとで基本に忠実に丁寧な酒造りを学び、すごく刺激を受けてしまい、辞めるつもりだったはずなのに、逆に真剣に酒造りに取り組む覚悟ができて。

 

 

——  いつ頃から今のブランディングや情報発信を始められたのでしょうか?

 

 

祥子 父が亡くなって2年くらい経ったころ、もうちょっと吉田酒造の味としてちゃんとしたいとずっと話していて。わたしが帰ってくる前からビジョンの構想はあったんですが、そろそろ実現に向けて明確にする必要がある、ということで、父が何気なく言っていた「目が届く範囲でお酒を造る」という言葉と、残してくれていた酒造りに必要なお米である山田錦を育てる田んぼに力を入れていくべきなんじゃないかと話していました。

 

そこから「目が届く、手が届く、心が届く酒造り」という理念にこの土地で取り組む意義を盛り込みたいとも思っていたので、永平寺のお米と水と人でやろうという「永平寺テロワール(※)」というビジョンを作ったんです。

 

「テロワール」とは
「土地」を意味するフランス語terreから派生した言葉。もともとはワイン、コーヒー、茶などの品種における、生育地の地理、地勢、気候による特徴を指すフランス語。 同じ地域の農地は土壌、気候、地形、農業技術が共通するため、作物にその土地特有の性格を与えるものという考えに基づく。

 

じゃあ実際に目が届く、手が届く、心が届く生産範囲はどのくらいだろうと考えたら、わたしたちができるのは2倍の規模までということも見えてきて。

5年くらいかけて2倍にするには田んぼも増やしていかなければいけないし、増やすためには白龍のお酒を知ってもらい、売っていかないといけない。どれだけ売上を上げなければいけないかが見えてくると県内だけじゃなく、地域を超えて広く知ってもらわなければいけない。実現に向けてホームページも変えようとなりました。

 

営業はわたしが担当しているんですが、東京の商談会に参加してたくさんの小売店の方と名刺を交換し、後日サンプルやお手紙をお送りしたり、連絡したりしてもなかなか感想も聞けないし、ほとんど取引につながらなくて。最初の半年は人海戦術でとにかく回りまくっていました。

 

最初の頃はなかなか振り向いてもらえなかったんですが、2018年にはクラウドファンディングサイト「Makuake(マクアケ)」で資金を集めたり、地道な活動を続けているうちにテレビで取り上げていただいたことで話題になって、取引が広がっていったんです。

 

 

 

真子 クラウドファンディングはわたしの杜氏デビューの年に「やってみませんか?」とお話をいただいて。初挑戦のこのタイミングが一番応援してもらえるチャンスだと思ったので、クラウドファンディングに挑戦してみようって思ったんです。

 

 

——  今後の目標や展開について教えてください。

 

祥子 お酒以外にも事業の柱を作っていきたいですね。

会社として安定してあり続けるには、酒造りとは別の軸がもうひとつほしいと思っています。煎り酒(いりざけ)という日本酒に梅干等を入れて煮詰めた醤油のような風味の日本料理独自の調味料を事業化できればと思っています。大豆を使っていないのでアレルギーの子どもたちに向けた調味料としてもいいですし、塩分控えめなので病院食や介護福祉施設にニーズがあるのではと考えています。お酒を使って人の役に立てる商品をBtoBでも展開できればとおもしろいと思っています。

 

 

真子 わたしは地域の誇りになれるような酒造りをしていきたいです

製造量を増やすには自社の田んぼだけでは山田錦をまかないきれないので、地域の人に協力してもらわないとやっていけません。農家の方には冬は蔵人としても来ていただいているので、地域との関わりは密接です。永平寺の誇りになれるような酒造りをしていきたいです。

 

そして、永平寺テロワールを謳うからには白龍を飲んでいただいた方に、「このお酒が生まれた場所へ行ってみたい」と思っていただきたくて、ホームページに「ツーリズム」というコーナーも作ったんです。「永平寺ってこんな所なんだ!」と知っていただいて、来ていただければうれしいですね。

 

 

(取材・撮影:中山カナエ/文:三枝ゆり)


<会社情報>

吉田酒造有限会社
〒910-1325 福井県吉田郡永平寺町北島7-22

https://www.jizakegura.com/


 

アトツギベンチャー編集部

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