2019.02.21

【インタビューVol.28】“アトツギだからできた”地元の挑戦者たちとの繋がり。家業を通じて、地域に新しい風を生む(株式会社清原 清原 大晶 氏)

創業から50年。2代目の父のあとを継ぎ、滋賀県守山市の「株式会社清原」で5年前から代表を務めているのが清原大晶さんだ。

 

現在、同社の「袱紗(ふくさ)」は、全国で約45%ものシェアを担っているという。ニッチではあるが、業界ナンバー1の企業である。

 

問屋を通じ、百貨店や専門店などに袱紗を企画・製造・販売する一方で、清原さんは2010年から自社ブランド『和奏(わかな)』をスタートさせた。「母子手帳ふくさ」や「ボトルふくさ」などユニークな製品を開発し、Webサイトやギャラリーを通じて展開。卒業記念品やさまざまなノベルティの製作を含め、全社の売上の20%近くを占める事業に育てた。

 

清原さんは今、そうした新しい商品を作る際に滋賀県の生産者と積極的に連携を図っている。さらに地元の起業家たちとの関わりから、彼らが集う交流会『EN-teras MORIYAMA(縁・テラス モリヤマ)』を主催しているという。

 

なぜ家業を継ぎ、どうやって人との繋がりを生んでいったのか。生い立ちから今に至るまでのお話を伺った。

 

 

継ぐ決意は、社会人の厳しさを知ってから

 

―子どものころ、家業に対してどんなイメージをお持ちでしたか?

 

そうですね…。正直に言って、何をしているのか全然わからなかったです(笑)。昔は自宅の隣に工場があったんですが、「機械の音がしてるなぁ」くらいの印象しかなくて。

「袱紗」という商品も子どもにとって馴染みあるものじゃないので、「家は会社の経営してるんやな」くらいのイメージでした。ただ、当時から長く勤める社員さんは多くて、顔を合わせると可愛がってもらった記憶はありましたよ。

 

 

―当時から、お父さん・お祖父さんに「継いでほしい」と言われていましたか?

 

祖父からは、学校出たらすぐ修行に出ろ、みたいなことは言われていました。何のことだろうと思いながら聞いていましたけど(笑)。ただ父からは、一切何も。社会に出る時も「家業のことは考えずに、やりたい仕事に就け」と言われました。

 

それでも、いざ実際に就職活動をすると、ものづくりとか繊維系の仕事に自然と興味が向いて。「いつか継ぐかもしれない」と、何となく思っていたのかもしれませんね。結局、繊維事業を主とした大手メーカーから縁をいただいて、東京へ出ました。

 

 

―家業へ戻ろうと決めたのは、いつ頃だったのでしょうか?

 

勤めて4年ほど経った頃です。僕の配属は本社の人事部でしたが、自分も仕事をするようになり、社会や組織の厳しさを実感するようになって。帰省するごとに、父と仕事の話をすることが多くなっていました。家業の細かい事業を知らなかっただけに、父のやってることを聞くと色々と発見がありましたね。

 

“経営者は孤独だけど、夢がある”

 

これは、父がよく言っていて、僕も家業へ戻ろうと決意した言葉で。ニッチな業界ですが、トップシェアをとるぞって熱意も感じました。父と話していると、家業へ戻ってきて欲しい様子もあったので、勤めていた会社にも相談し、地元の守山へ帰らせてもらうことにしたんです。

 

 

 

現場での戸惑い、親子の衝突があって経営者へ

 

―戻ってみて実際にいかがでしたか?

 

いち社員として入りましたが、仕事の進め方が全然違ってやっぱり戸惑いましたね。電話の応対ひとつでも、得意先・仕入先との距離感が近くて。僕は大企業の頃と変わらない電話対応をしていたんですが、電話先の方から「いや、ちょっとカタすぎるわ」って言われることも多々ありました(笑)。

 

僕と父の中で「最初は現場から」と決めていたので、生地の裁断や商品の箱入れ、得意先への納品など、家業に関する実務は全てやりましたね。おかげで包装に関しては今も社内で一番速いくらい得意になりました(笑)。皆と汗かきながら、泥臭い仕事もいっぱいやりました。

ただ、商談や打ち合わせにはなるべく父に同行し、横で仕事を見て学ぶようにしていました。あとは地域産業資源に対する補助の事業計画など、行政機関との連携は一任されましたね。日によっては日中現場に入って、夜は書類作りして。

 

自分が考えた事業計画が認定されると自信にもなったし、父も認めてくれました。何より自社の強みを認識し、それを活かしてやりたい事業や今後のビジョンを明確にできたのは良かったなと感じています。

 

 

―これは失敗した……みたいな経験はありますか?

 

数年経った頃、大きな注文を放置してしまったことがあって。誰かがやってくれるだろうという甘えもあり、自分でも自信をつけていた事業計画の書類作成をずっとやっていました。そのとき、今までにないほど父にキツく叱られてしまって。「頭でっかちになるな。他人任せにせずに自分が率先して動いて、何より現場を大切にしろ」と。

 

基本は「やりたいことやって、自分のミスは自分でケツ拭けよ」っていうスタンスなので、その戒めでもあったと思いますけど。

 

 

―良いご関係だったんですね。アトツギだと、親子でぶつかって大変という話もよく聞きますが……。

 

いや、色々と言い合いはしましたよ(笑)。でも、それを経て自分も一人前になった感覚はあったので。ぶつかることで、先代との考え方の違いも分かりましたし。

今思えば、祖父と父もよく喧嘩していました。祖父が努力して始めた事業を、組織化したのが父なんですが、その考え方の違いからか言い合う姿は小さい頃よく見ていました。でも仲が悪いとは思わず、「ああ、また仕事の話をしてるんやな」と捉えていたので。そのイメージはあるかもしれません。

 

それと今改めて感謝しているのは、父が周囲に向けて僕に対する不満や悪口を言わなかったこと。内心色々思うこともあったはずですが、「あいつアカン」みたいな文句を外で言わなかったのはありがたかったです。これは、祖父も父に対してそうだったようですね。

 

 

 

周囲とのコミュニケーションが新しい商品を生み出す

 

―継いだのちに、新ブランド『和奏(わかな)』の事業を立ち上げられていますね。

袱紗の事業はある程度安定していたのですが、それだけだと先細りになるとは思っていました。それまでメーカーに徹していましたが、技術には自信があったし、もう少し清原の名前も出していきたいという気持ちもあって。

 

もうひとつは、滋賀県は「綿・麻・絹」の天然繊維が揃う日本でも唯一の地域です。このメリットを活かし、“オール滋賀”のものづくりができないかと。既存の袱紗づくりには経済面で手ごろな他府県の生地や素材を主に使っていたのですが、たとえ高価になったとしても、ここでしか作れない滋賀の産品として発信していけないかと。

 

そんなことを考えていたら、僕の後に入社してきた姉も賛同してくれました。

 

 

―ご姉弟で立ち上げられたブランドなんですね。

 

姉は県内の産地を周って良い関係を築いたり、広報的な役割を引き受けてくれました。『和奏(わかな)』名前を考えたのも姉です。今はブランドコンセプトや方向性も明確なので、ブランドマネージャーとして企画などをほとんど任せていますよ。

 

 

―化粧ポーチなど、意外な商品もありますが、商品の企画やアイデアはどのように生まれてくるんでしょうか?

 

このポーチは姉のアイデアを、うちのデザイナーとミシン担当の社員が相談し試行錯誤しながら開発したんです。僕ではこういう商品を思いつかないので、とても新鮮でしたね。

 

うちでは、全社員に「何か自分に作りたいものがあるときは、各自の判断で時間を取って構わない」と伝えていて、アイデアの発案や商品開発の研究は自由に取り組んでいいんです。特に、どこまで各自が自由に取り組んでいいのか、そもそもなぜやるのか、なども事前にしっかり説明するようになってからは、社員間の会話も発案数も、自然と増えていった気がします。

僕も自分の企画や今考えていることを、月1〜2回、全員で作業場に集まる時に話す機会を
取っています。コミュニケーションの取り方については、過去勤めていた人事の経験が活かされてるかもしれません。

 

 

 

自ら足を運んで生まれた、起業家との繋がり

 

ー清原さんは昨年から、地元の起業家が集まる交流会も主催されていますよね。一見、本業とはかかわりがないように思えますが、なぜ取り組まれているのですか?

 

経営者として外からの情報も収集しますが、ある時期から自分が生まれ育ち、今は住んで働いている「地元」に興味が向くようになりました。この守山にも色んな店ができて、若い経営者も多い。そういう起業家の考え方を聞きたいな、という意識が芽生えてきて。

 

また、少し前に祖父が亡くなった際、「あなたのお祖父さん、とても苦労されていたよ」という話を多くの方から聞き、会社や事業を立ち上げる大変さを感じました。僕みたいな後継者には知り得ないことだからこそ、創業のエネルギーのある人たちと一緒に勉強すべきじゃないかと思って、周りの起業家に声をかけたのが大きなきっかけですね。

 

 

―起業家の方たちとはどのように関係づくりをされたんですか?

 

気になったらまず行ってみる、です(笑)。実は、僕は小学校からずっと市外の学校に通っていたので、幼馴染とかアトツギ仲間があまり居ませんでした。

 

だから少しでも気になる人やお店があれば、店舗などに足を運んでみて、少しずつ繋がりを作って。でも、彼らとの関係ができたのは、僕が起業家の皆さんとは何のしがらみもない“地元の後継者”という存在であったこともひとつの要因かなとは思っています。

 

 

―出会いの中で商品が生まれることもありますか?

 

ありますね。地域のばら農家さんのばらと県産の絹素材を使った「ばら染め」という新たな袱紗の商品が生まれた事例もあります。

 

滋賀の最高級の絹「濱ちりめん」を生地に使い、地域産業資源にも認定されている「もりやまのばら」の花弁で試行錯誤しながら染色し誕生した商品なんですが、染料が植物由来のものとは思えないほど発色も鮮やかで、評判のいい商品となりました。

 

他にも、子育て中の起業家さんたちの声を活かした商品を開発しよう考え、市内のママさんたちと定期的に企画会議を重ねながら商品を企画・試作しています。明確な課題とアイデアを持っている方たちと一緒に、新しい価値を生み出していく。こうした機会は、今後も大事にしていきたいですね。

 

 

アトツギには“形にできる”面白さがある

 

―これからチャレンジされたいことはありますか?

卒業式や人生の節目に贈る記念品、ノベルティ市場には大きなチャンスがあると感じているので、広げていきたいですね。これは諸説ありますけど、袱紗の語源はよりよいものを包むという意味がある「ふくさめる」という言葉らしくて。

 

これからは、袱紗を冠婚葬祭のときだけのものではなく、「自身の大切なものを包むもの」として使っていただける文化にしていきたいです。

 

 

―最後に、アトツギになって良かったと感じていることがあれば教えてください。

 

自分の考えたことを、自らの意思決定で最後まで形にできるのは、やっぱり面白いですよ。いいだしっぺの法則ですね。熱心に動けば、必ず理解者は現れます。

 

最初は興味のない事業だったとしても、やりたいことが出てくるきっかけは必ずあると思います。やってみて結果がダメでも、大怪我さえしなければ大丈夫です(笑)。何度でも修正できますから。

 

あとは、地元に戻ってからの繋がりですね。守山への想いはずっとありましたけど、帰ってきて本当に良いまちだと感じます。

 

地元の経営者として、大切なのは「出会った人たちと、自社の社業を通じて地域へ貢献すること」。それは、これからも意識していきたいと思います。

 

 

 

(文:佐々木将史/写真:中山カナエ)


<会社情報>

株式会社清原
http://kiyohara-net.co.jp/

〒524-0044 滋賀県守山市古高町477−15


 

アトツギベンチャー編集部

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